人物紹介     戻る

大橋房太郎生まれる

1860年(万延元年)大阪府東成郡榎本村(現在の大阪市鶴見区)放出(はなてん)の庄屋に生まれました
万延元年と云えば幕末、そう桜田門外で井伊直弼が殺害されたなんとも血生臭い時代に生を受けたのです

大橋家は放出(はなてん)の庄屋で定かではありませんがその昔、学校の歴史の授業で習った「建武の中興」の楠木正成の家臣の家柄とか

少年時代

大橋家は「なたね油」を絞る事業を営んでいたんですが家業の合い間を見ては本を読んでいたらしく家長の兄からはずいぶんうとまれていたようです
明治15年 房太郎22歳の時に転機が訪れました。お寺のご住職に学問を習っていたのですが、そのご住職の紹介で小学校の代用教員となったのです。
(代用教員とはドイツのチューター制度に習い家が貧しくとも学業優秀な若者を育成する為に勉強をさせながら初等教育をさせる制度です)
翌年、房太郎は代用教員の職にあきたらず法律家を目指すべく、上京を決意します。
今と違い、東京と云えばはるか遠い所、通信手段もあまりありませんから、余程つてでもない限り上京しても何ともならないのですが房太郎は無鉄砲にも何のつてもなく上京し、法律の大家、鳩山和夫氏邸をたずね、強引とも思われる方法で氏の書生となったのです。
昼間、鳩山邸の雑用を行い夜、夜学に通う毎日でした

明治18年の大洪水

東京の鳩山邸で書生をしていた時、明治18年大阪大洪水を新聞で知った房太郎は急遽帰阪、大阪中を見て廻り何のあても無く、俺が何とかせねばと一大決心をしたのでした。早速鳩山氏に別れを告げ大阪、放出(はなてん)で米屋を営みながら淀川治水の足がかりを模索する事になったのです

実は、明治18年だけ大阪に洪水があったわけではありません
元々、大阪平野と云うのは京都盆地と近江地方の大雨が大量の土砂を淀川で運び数千年の時を経て作られた扇状地です。縄文時代にはまだ大阪平野はなく海だった様です、、又先人の知恵で現在に近い大阪になったのですが、この淀川、当時はずいぶん蛇行していました。
大雨があるとすぐ氾濫していたようです。(ただ明治18年の洪水はすさまじかったようです枚方の辺りから大阪平野の大部分を飲み込みました)
又、土砂は相変わらず流れ込んで来ますから天井川状態だったんですね、
現在「大川」と呼んでいる所が淀川の主流だったんです

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